しゅうまいうまい

海老名へ向かう列車

ゆるやかに出発進行

先は長いぞ

先は長い

横浜から二俣川までのなんてなんて長い急行区間

運転士の背中はつねに一定の水を湛えながら

左右に揺れて

水、揺れて、

視差呼称する指また鋭く

通過電車をすまなく追い越す、

しゅうしゅう~~

まだ先は長い

運転士の背中はだんだんと熱さを帯びる

その背中が湯気をはなち

人の背中とは思えなくなる・・・・

そんな さまを見ていました

ガラスに映るあなたの背中の影に車両の旅客が写っています

あなたはいまその背中にこれだけの人間を背負って背負って背負いまくって視差呼称、信号よし、線路のかたちに俺、進め、重いだろうに軽がると、熱いだろうにひえびえと、ハマっ子はいつもスマートに、地味で悪かったな、相鉄線は進みます・・・・

野暮な言葉はいまはいうまい、しゅうまいうまいうまい。

今日は低調な日で・・・何をしたんだろう。

わたしの分野でも、欧米からさまざまな考え方やキーワードがやってきて、いろんな実践が行われています。外来語、たとえばエンパワーメントやエンカレッジメント、ノーマライゼーション、セルフエフィカシー、ソーシャルインクルージョン、それは欧米や北欧の方々の思いのなかで生まれた考え方であり、その実践がわが国でも多くの方の幸福に貢献したことは確かですが、その考え方は、本当の意味で「わたし」の考え方なのだろうか?わたしのなかにその考え方を根ざすだけの土壌があるのだろうか?ということに、疑いを持っています。

わたしは障害者をエンカレッジするだけの人生哲学を持っているのだろうか?

わたしが障害を得たときに、何をもってエンパワーされるのだろう?何をもってエンカレッジされるのだろう?・・・・やっぱり、愛、かしら、しかし、愛も外来語かな・・・?わからなくなってきた。

研究という営みが大事なことは疑う余地もないのですが、研究が自己目的化してしまうと、臨床や生活と乖離したところがあるのじゃないかなという気もしています、これは自分への反省です・・・まだ、まにあうかな・・・・・。

帰り際、また やつが いました。

調べたところ、ヒキガエルみたいですね。

昨日の二匹のどっちかかと思ったのですが、どうも三匹目のようでした・・・。

ただの都内の、田舎でもない住宅街なのに・・・・よほど住む条件が良いのでしょうか。

おなかを膨らませているのは威嚇のようで・・・・おどろかせて、ごめんです。

顔を見ていると愛嬌があってかわいいですね。

透き通る目も綺麗です。

ときどきFacebookでフレンドリクエストをいただきます。もともと知っている方はもちろん歓迎なのですが、覚えのない方の場合、どうしたらよいのか、よくわかりません・・・・覚えがないといっても、どの方もちゃんとした方であるのはわかるのですが・・・。

なんとなくですが、フレンド登録などの前に、何らかのかたちで知り合っているほう

が、わたしの頭では自然なことのように思えるのですが・・・でもフレンドになるというのは、知り合いになるひとつのきっかけであるという考え方もできますし・・・・そのあたりについてまだいろいろ考えつづけています・・・

石頭だな わたしは・・・これだからSNSに向かないのだなあ・・・・・。