特徴的な「の」という字を書く人。人生を達観したような詩を書く人。それが私にとっての相田みつおだった。

いや、正確に言えば、それ以外は何も知らなかった。彼を詩人と呼ぶべきか、書道家と呼ぶべきか。それすらもよく分からず、ただ1つ言えることは作品が1つ1つが道徳的で、教科書に載るような手本となる人だということだ。

 

菩薩のような言葉を並べる彼。さぞかし穏やかな顔立ちで、物静か、溢れる言葉を淀みなく書にする人なのだろうと思っていた。招待券を頂かなければ、恐らくそういった彼の人物像は崩されず、何も知らないまま、私は時を過ごしていたかもしれない。

そう、つまりはそういう人間ではなかった、ということだ。

しっかりとした眉に、ぐっと結ばれた口、両腕を組み、胡座を組む。甚平を着て正面を見据えた目の奥には、まるで蒼い炎が揺れているようだった。

その両側には書の山。自身でボツにした作品の山。書いて書いて書いて、取捨選択を続け、そこに残る作品は1つもなかったという。

菩薩のような、優しい人。とんだ感違いもいいとこだ。彼は何よりもまず文字の、言葉の、書の職人だったのである。それを知り、俄然、興味が湧いた。

 

詩というものは、感性で書くものだと今まで思っていたところがあったが、彼がそうではないことを教えてくれた。まず、鉛筆で長い詩を書き、それから要点を抽出する。余分を省き、再構築させ、単純明解な詩にする。その上で、何枚も、何枚も筆と墨で書くのだ。その詩に見合う字体、大きさ、濃さ、そういうものの全てを考えながら。1作品が出来上がるまで、途方もない時間と労力が費やされていることは、明白だろう。

なかなか書が売れない時代に、詩人として生きて行くと決めた中で、てぬぐいに詩を書いてろうけつ染にするというのは、なかなかの手法だと関心した。書以外のものには手を出さないという覚悟。その上で、収益を生むことの出来るろうけつ染。彼としては本意ではなかったかもしれないが、私にはえらく心に刺さるものがあった。信念を曲げない中で生まれる、ろうけつ染ならではの文字。藍色を背に白く浮き上がる文字が魅せる雰囲気は、墨から感じられるものとは格別なのである。

 

彼の作品が、仏の教えのようで、道徳的過ぎて、いささか苦手だという人もいるだろう。しかし、相田みつお自身、それを自覚していたらしく、少し説教じみた詩には必ず末尾に「にんげんのわたし」と入れているということも知った。

つまり、自身は仏でも、神でもないということ。同じ人間だということ。そして、必ずしも自身が出来ている訳ではないということ。そういう意味を込めた一文なのだ。

 

貴重なことに、相田みつおの息子である館長のトークを拝聴することができた。館長曰く、相田みつおの字体を真似た偽作品がネットオークションで出回っているという。

…なんとあさましいことか。

これだけの労力と思いを1字1字に込め、世に評価される前に去って逝った彼を、これ以上に侮辱する行為はあるだろうか。

文字だけ真似たとこで、詩に込められる想いまで表現仕切れる訳がない。想いが届く訳がない。そんな偽詩人に私は言いたい。

「人の文字を真似て小銭を稼ぐ前に、まず、自分の文字と向き合ってはどうだ。」と。